ハスから生まれた観音様「三室戸寺」

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三室戸寺の創建は宝亀元年(770)、光仁天皇の勅願で、行表が二臂の観音像(後の千手観世音菩薩)を本尊として祀ったことを始まりとしています。当初は天皇貴族の尊崇厚いお寺でした。それが伽藍の整備されるに従い庶民の間にも信仰が普及します。やがて境内は常時の賑わいを見せ始めるのですが、寺の美麗な景観もその一役を担ったことでしょう。

 

山門

 

およそ5千坪にも及ぶ大庭園は、周囲に2万株のツツジ(5月)や1万株のアジサイ(6月)が彩りを添える絶景地。過去には光仁、花山、白河の3天皇がこの地に離宮を建てて景色を楽しみました。取材時の8月、盛りを迎えていたハスの葉が3天皇にどのような輝きを放っていたのか興味は尽きません。

 

蛇体橋。雨の降る日には端の裏側に蛇の影が現れると云われています

 

ハスの彩る参道を進んでいくと、およそ180年前に建てられた本堂が見えてきます。
本尊は千手観世音菩薩で、完全秘仏。写真も公開していません。よって参詣者は模して造った二臂の「お前立ち」像(千手観世音)へと願いを届けることになります。

 

ハス。奥に見えるのは納経所

 

しかし二臂の観音像でありながら、なにゆえ千手と称されているのでしょうか。

 

白壁王(後の光仁天皇)は、夜ごと射し込む金色の霊光の正体を知りたいと、藤原犬養に光の源を調査するよう命じました。命じられるまま光の源をたどると、やがて宇治川支流の志津川へたどり着きました。程なく犬養は滝壺に二丈ほどの千天観音を発見します。急いで飛び込む犬養でしたが、川面から顔を上げた時には千手観音はすっかり消えていました。
代わりに川の流れに沿ってゆったり流れてくるハスの花。おそるおそる手元で受けると二丈であった千手観音が何と一尺二寸の二臂の観音像に変化したではありませんか。その話を聞いた光仁天皇は霊験あらたかな気配を感じ、勅願によってその二臂の観音像を寺の本尊として祀った。やがて桓武天皇の御代に天皇が自ら千手観世音菩薩象を創ると、その中に二臂の観音像を納めました。ところが室町時代の1462年、失火によってこの千手観世音菩薩が焼失してしまいます。そこでからくも消失を免れていた中の二臂の観音像をそのまま寺の本尊としたのでした。名称はそのまま千手観世音と呼ばれ続けています。

 

季節にもよりますが、寺の見所は現在本堂の界隈が中心になっているようです。
例えば本堂の前にある「狛兎の像」。高さ150cm、幅90cmの巨大な兎が両手に添えているのは幅60cmの大きな玉。その中には卵型の石があって、それが立てば昇運がつくとされています。

 

本堂

 

狛兎

 

「狛兎の像」の向かいに据えられているのが「宝勝牛」。大きく開いた口の中には石の玉があって、これを撫でると勝運がつくと云われています。

 

宝勝牛

 

更には本堂正面の右隣に置いている「朝鮮鐘の龍頭」。槙島合戦の際、没収された寺の梵鐘の龍頭部が増田長盛の手に移った。しかしたちまちのうちに病に伏せる事体となったため陳謝し祈祷を寺に依頼、病は癒えて、程なく梵鐘は寺に戻された経緯を持つ龍頭です。
それゆえ重厚な歴史を匂わせるこの鐘の龍頭をなでると金(鐘)がかえると云われ、全国から噂を聞きつけた参詣者が跡を絶たないようです。

 

朝鮮鐘の龍頭

 

「朝鮮鐘の龍頭」でパワーを授かった参詣者の流れは次にどちらへ向かうでしょうか。
赤い小さな花を咲かせたハスの葉をシャッターに収めるでしょうか。あるいはハスの葉越しに見える宇賀神の像へと足を走らせるでしょうか。歴史の重みを感じたい方なら、三重塔へと向かう道すがら、脇に据えられた浮舟の古蹟に源氏物語の世界を重ねるかもしれませんね。

 

いずれにせよあらゆる点で確かな霊験を持ち合わせた三室戸寺は同じく宇治の地に建つ平等院に勝るとも劣らないお寺であるかなという印象を持ちました。

 

浮舟の古蹟。源氏物語千年記を記念して発売された「恋おみくじ」も試してみてください

 

宇賀神の像。斜に乗った、頭は老翁、体は蛇の像

 

庭園。山門から本堂に至るまでの参道はあじさい園(シーズン以外は閉鎖)や、庭園が広がっています

 

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アクセス

京都府宇治市莵道滋賀谷21
TEL 0774-21-2067
京阪 三室戸駅下車、徒歩15分
詳しくは、下記オフィシャルサイトをご覧ください。
http://www.mimurotoji.com
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