江戸時代、天麩羅は上方と江戸では大きく異なる食べ物でした。上方では魚のすり身をまんじゅう型などにして油で素揚げしたもので、今でいう薩摩揚げでした。他方、江戸ではイカ、エビ、蓮根、イモなどに溶いた小麦粉をからめて、油で揚げた衣揚げでした。後者の衣揚げが今日、天麩羅として普及しています。
天麩羅の名前の由来は諸説あります。スペイン語のテンペロ(料理)が起源という説や、「天」は揚げるの意、「麩」は小麦粉の意、「羅」は薄衣の意といった説などが代表ですが、証明になる確たる文献はなく定かではありません。
最初に文献に天麩羅が登場するのは江戸時代の寛文9年(1669)の『食道記』で、ここではすり身の揚げ物を指しているようです。また、寛延元年(1748)の『料理歌仙組糸』では魚や菊の葉、牛蒡、蓮根などの衣揚げが紹介されています。
江戸も後期、天明年間になると天麩羅の屋台が登場して庶民の味として人気を博し、その後は天麩羅専門店も出現、有名な料亭にも趣向を凝らした天麩羅を高級料理として出すところも出てきました。
こうして天麩羅は日本人に浸透していったのですが、なぜ天麩羅が広まっていったのでしょうか。日本人を天麩羅好きにしたのには理由がありました。
その第一は「ご飯」という主食に、副食としてのこの惣菜が実にぴったりと合うことでした。ご飯の風味に天麩羅の食味は相性が良く、質素で油気の不足な日本の素朴な食事にあって、ひときわ異彩を放つ存在でした。
第二は醤油の存在。天麩羅は最初、塩をふって食べたそうですが、油のしつこさを醤油は実によくなじませてくれるから、この美味しい惣菜を、一層日本人の心に印象づけました。さらに醤油は、日本酒やダシ、おろし大根などと一体となり「てんつゆ」として、さらに天麩羅を美味しい料理へと変貌させたのでした。
第三には、日本には天麩羅の種にする材料が豊富だったこと。エビ、キス、アナゴ、イカ、白魚、アジのような魚から、サツマイモ、牛蒡、蓮根、カボチャ、椎茸まで。四季を通じていつでも新鮮なタネが周囲にあるから、天麩羅は旬そのものを食べることが出来たのです。
「食と日本人の知恵(著:小泉武夫)」岩波現代文庫