日本人と大豆、そこには切っても切れない長くて深い関係があります。
豆類の中でも栽培の歴史が古い大豆を、日本人は太古の昔から食してきました。その証拠には秋田県小森山遺跡、山口県安田岡遺跡、静岡県伊場遺跡などから大豆が出土しており、弥生時代後期にはすでに栽培されていたことが分かっています。
豆類と穀類の最大の違いは含まれている栄養成分で、豆類はタンパク質と脂質が極めて豊富です。穀類のタンパク質含有量は平均7%であるのに対して、大豆では27~30%も含まれています。これに対して穀類はデンプンが主体となっていて、この違いを日本人は上手に食生活に応用してきました。
米を主食とする日本人のご先祖様たちは、大豆は栄養上、大切な補助食品であることを体験的に学び、これに様々な知恵を働かせて、味噌や納豆など付加価値の高いものを次々に産み出してきました。豆腐や豆乳、油揚げは中国伝来のものですが、日本ではそれら外来物を超えるほどの優れた食品を開発してきました。その代表例が味噌と醤油です。
ともに大豆を主原料として、これに麹菌を増殖させてタンパク質からアミノ酸を溶出させ、さらに酵母や乳酸菌で発酵させた、わが国独自の嗜好品です。味噌は汁にして、または漬け物の漬け床とし、さらに食品の保存用に使って重宝しました。
鎌倉時代、武士たちの食事は一汁一菜でした。1日5合の玄米ご飯に、味噌汁と魚の干物という献立だったそうです。粗食に思えますが、玄米でカロリーを、干物からカルシウムとタンパク質をそれぞれ取り、味噌で栄養を補給するという食べ方は理にかなった食事法といえましょう。
そして、これが以後の日本人における食の基本になり、明治、大正時代に至るまで長く受け継がれました。米は時代と経済事情、階級などによって精米されたり、雑穀になったり、干物が野菜の煮ものになったりすることはあっても、味噌だけはどんな状況下でも変わらずに食べ続けられたのです。そのため、味噌の醸造だけは他人まかせにせずに、それぞれの家で、「家族(1人)に1斗、客1斗」を年間の仕込みの目安にして造っていたのです。つまり、年間に1人1斗の味噌を食べていたようです。
味噌が現在の味噌汁のような形になって、庶民の食事に組み込まれるようになるのは室町時代になってから。それまでは粒々を残したままで、調味料兼たんぱく質補給源の大豆を食べるのが「味噌汁」でした。
味噌を擂る(する)ことに気づいたのは鎌倉時代で、当時知識の源でもあった禅寺でした。粒のある味噌を擂ることで調味科としての用途が広がり、精進料理は献立を増やしたことでしょう。室町時代に入ると味噌に関する料埋の発展基盤が整い、味噌汁だけでなく、今に伝わる味噌科理の多くが、このころから造られるようになっています。
「医者に金を払うよりも、味噌屋に払え」 ― これは江戸時代のことわざです。庶民は「手前味噌」を醸造し、調味料としてのみならず、保健のための栄養素として、味噌をべ一スにした食生活を確立したのでした。
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【参考資料・web】
「食と日本人の知恵(著:小泉武夫)」岩波現代文庫
みそ健康づくり委員会HP
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