車南禅寺は正応4年(1291年)に亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創したお寺。しかしその頃は未だ南禅寺との名称は用いられておらず、禅林禅寺との呼び名で通っていました。また禅林禅寺も亀山上皇が正応2年(1289年)に了遍僧正を戒師として出家した時には未だ伽藍としては何一つ機能するものがなかった離宮の禅林寺殿の名で呼ばれていました。結局南禅寺と称されるようになったのは正安年間(1299 – 1302年)の頃であるとされていますがこのおよそ10年余りの短い期間に禅林寺殿、禅林禅寺、南禅寺とその寺号を次々に改めていったゆえを眺めてみると非常に面白い逸話が背景に隠されていました。
中門
参道と三門。寛永5年(1628)、藤堂高虎が大坂夏の陣の戦没者慰霊のために寄進したものとされています
1200年代後半から1300年代前半にかけて国内では持明院統と大覚寺統との激しい政治的抗争があり、一方国外では蒙古襲来への対応に四苦八苦するなど、日増しに緊迫の度合いを深めていく時勢がありました。その逼迫した情勢にとうとう耐えきれなくなった亀山上皇は自ら進んで出家し法王となりました。しかし出家した後も不安感は拭えず、異常なまでに膨れた危機意識は当時離宮で頻発していた妖怪事件への過剰な反応へと結びつき、早速退治の名目で京都の東福寺から無関普門(むかんふもん)を招聘、しかし法皇の心配をよそに無関普門がお供の弟子と離宮の中で静かに座禅を組むとあっけなく妖怪は退散し、この姿に感銘を受けた法王は無関普門を開山に招き、離宮を禅宗寺院に、そしてその名を禅林禅寺と改めました。開山に迎えられた無関普門ですが伽藍の整備をする間もなくその年には遷化、その死に伴い迎えられた二世住職の規庵祖円(きあんそえん)が実質的には禅林禅寺の主要な伽藍を整備していきました。その脇には常に亀山法王が率先して石を組み、土を運ぶ姿が見られたそうです。その亀山法王も嘉元3年(1305年)、嵯峨の亀山殿で57年の人生に幕を下ろします。ちなみにその年は15年もの長い歳月を費やし造営した南禅寺の伽藍がほぼ完成に至った年でもありました。
法堂。豊臣秀頼により寄進されたものは焼失、明治42年に現在のものが建立されました
方丈入口
その亀山法王作庭とされているのが南禅院の池泉回遊式庭園。京都で唯一鎌倉時代に作庭されたものであると同時に京都の三名勝史跡庭園の一つにも指定されています。深い木々で包まれた空間に滝口の石組と竜の形に作られた蓬莱島や心字島が浮かび、記録によれば造営時、吉野の桜や難波の葦、竜田の楓等が移植され、また井手の蛙も放たれていた模様。離宮禅林寺殿の遺跡でもあり南禅寺発祥を伺い知ることの出来る場所ですから参詣の折には是非ご覧になってください。
南禅寺の庭園で言えば、方丈の南側に造られた庭園も見逃してはいけません。方丈向かって前方と右奥には白砂が配され、左奥には大きな石組が堀に沿って右へ段々に小さくなるよう石が配されています。
虎の子渡し
小方丈庭園。別名如心庭と呼ばれています
またその石の並ぶ掘際には同時に苔に松や椿やサツキなどの樹木が植えられ、その緑の色味は砂と石と比して背景を鮮やかに引き立たせてもいるようです。俗に「虎の子渡し」と呼ばれるこの庭園は、小堀遠洲作庭と伝えられ、江戸時代初期の代表的な枯山水庭園。巨大な石を横に寝かせるようにして配置する手法から須弥山、蓬莱山などの仏教的世界観を表現した庭園から脱する構成を志向しています。
なお南禅寺方丈には他にも「心を表現」することを主題に作庭された落ちついた雰囲気の「小方丈庭園」や、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道輪廻を現した「六道庭」など見るべきポイントは複数ありますので永徳、探幽など狩野一門によって描かれた華麗な障壁画を鑑賞しながら巡ってみてくださいね。
六道庭
南禅院。元禄16年(1703)徳川綱吉の母桂昌院殿らの寄進により再建されました
ところで南禅寺の中門を抜けて参道を歩いていると妙な感覚を味わいました。中門の直線軌道からは三門、法堂、方丈が左にずれて配置されているのです。確かこれと同様の感覚をどこかで味わったなと首をひねって記憶を探っていると期せずして北野天満宮の楼門が、そしてそこから然るべき位置より少し西にずれた本殿に思いは至り、結局その配置のカラクリは摂社の地主(じぬし)神社にあったわけですが、南禅寺で言えば勅使門がそのカラクリに該当するようです。つまり天皇や貴族など皇族に限って通行が許される勅使門の先に三門、法堂、方丈を一直線に配置したのでしょう。
実際、勅使門から伸びる参道の景観が素晴らしい。特に日本三大門の一つに数えられる巨大な三門(天下竜門)に脇を彩る季節の木々が控えめによりかかる様は、遠近のバランス、絶妙な色味と相まって境内どの場所に比しても絶景。天下一の大盗賊である石川五右衛門も三門に足をかけ煙管を吹かしながら「絶景かな絶景かな」と感服しただけのことはあります。ただ歌舞伎「楼門五山桐」では桜の季節に題をとっています。仮に紅葉の栄える季節に五右衛門が三門を訪れていたならば、いったい彼はどのような見得を切っていたのか気になるところですね。
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アクセス
京都府京都市 左京区南禅寺福地町86
TEL 075-771-0365
地下鉄東西線「蹴上駅」下車徒歩10分
詳しくは、下記公式サイトをご覧ください。
http://www.nanzen.net/
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