清き流れの「水間寺」

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高志才智(こしのさいち)と古爾比売(こじひめ)との間に生まれた行基は成長し15歳になると早くも出家し、薬師寺に入ります。そこで道昭より瑜伽唯識(ゆか・ゆいしき)を学び、竜門寺の義渕からは法相を学びました。元々優秀であった行基は一読すると即座にそれらの教えを理解したと言われています。

 

厄除橋。水間寺には山門がなく、代わりにこの厄除橋が寺の入り口であるような印象を受けました

 

やがて寺を出、山林修行に入り、優れた神通力を身に着けた行基は37歳の頃に一念発起して各地を巡る民間布教を開始、行基のもとにはその人格を慕ってか多くの信者が集まったそうです。程なく行基は彼らをひきつれ橋を作り、道を修繕するなどの社会事業を始めました。

 

境内。三重塔(左)と本堂(右)

 

ところが当時は国家仏教の真っ只中、こうした社会事業を私度僧が勝手に行うことは厳重に禁止されていたのです。実際、時の朝廷からは5度にわたって中止勧告がなされ、ひどい時には実力行使の強い弾圧もあったようです。しかしそれにも屈しない行基は民衆を救済するため当初の志を曲げずに社会事業を続けました。その結果、ついには行基の活動が公に認められる運びとなりました。

 

三重塔。かつては多宝塔でしたが、天正の乱で三重塔として生まれ変わりました

 

恭仁京の造営や東大寺の建立では、行基や彼の信者がおおいに活躍したと言われています。その誉は時の為政者聖武天皇の耳にも入ります。聖武天皇は行基をたいそう気に入り、天平17年(745)には我が国初の大僧正の位を行基に授けました。私度僧から大僧正への大出世、それはどれだけ激しく糾弾されても、決して曲げることのなかった行基のタフな国家感があったからに他ならないのでしょう。

 

本堂。大阪府下では最大級のお堂とされています

 

聖武天皇42歳の頃、大病を患い寝込む天皇に突如として夢のお告げがおりました。
それによると奈良の都から西南の方向に観世音菩薩が現れるとのこと。早速聖武天皇は勅命で敬愛する行基にこの菩薩を探してほしい旨依頼します。その依頼に従い西南へと足を運んだ行基は程なく山間、二つの川が合流する水間の地(現在地)に到着しました。そして目の前に突然現れた16人の童子に誘われるがままとある滝に赴くと、巨岩の上に佇む老人(竜神)から一体の仏様を受け取りました。それこそが一寸八分(約6センチ)の聖観世音菩薩で、これを都に帰って天皇に捧げたところ、ウソのように病が全快したのだそうです。
ちなみに、老人の現われた滝は今でも水間寺の境内に「聖観音菩薩出現の滝」として多くの参詣者から注目を集めています。

 

みなかみは 清き流れの水間寺 願う心の底はにごらじ
                       水間寺詠歌

 

聖観音菩薩出現の滝。パワースポットとして多くの参詣者が訪れます

 

水間寺には上のお話以外にも各お堂に秘められた魅力的なエピソードが今に残っています。
例えば、本堂と並ぶ中心建築としてそびえ立つ三重塔。大阪府では唯一江戸時代より前に作られたものとされ、高さ20メートルの威風堂々たる構えは市の文化財にも指定されています。
或る年、江戸の名も知れない廻船問屋が寺から一貫の銭を借りて帰り、それを「水間寺の有難い観音様のお足だ」と言って貸し出すと、借り手が止まずの大繁盛となり、それから13年経過したある日に儲けた8192貫もの大金を寺に寄進したのだというお話。三重塔はそのお金によって建立されたと言われています。なおこのお話は井原西鶴の「日本永代蔵」にも掲載され、今でも水間寺には、上のエピソードに端を持つ「理性の銭」の慣習が脈々と続いているようです。

 

愛染堂。「お夏清十郎」の伝説は1936年に林長二郎と田中絹代を迎えて映画化されています

 

行基堂

 

献馬像

 

護摩堂。全ての悪魔を降伏させる不動明王が祀られています

 

聖観音像

 

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アクセス

大阪府貝塚市水間638
TEL 072-446-1355
南海鉄道本線「貝塚駅」で水間鉄道に乗り換え、終点「水間観音駅」で下車 徒歩約10分
詳しくは、下記オフィシャルサイトをご覧ください。
http://www.mizumadera.or.jp/index.html
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