三千院は延暦年間(782~806年)に最澄が比叡山東塔南谷に円融房を建てたことに端を持つお寺。青蓮院、妙法院とともに天台宗三門跡寺院の一つとして知られています。
その歴史を見れば、何度か移転を繰り返してきたようで、比叡山の東塔南谷、同東麓の坂本、京都御所の東と寺域を移すたびその名も円融房、円徳院、梶位宮と変わっていきました。大原に移り三千院と号するようになったのは比較的最近の明治4年(1871)になってからなのだそうです。
御殿門。平成15年に修復完成
ところで大原といえばかつて比叡山の教えに疑問を抱いた僧たちが山を下りてこの地に草庵を結んだことでも有名な場所、最盛期には僧たちが群をなして住んだ別所に49の支院が立ち並んだといわれています。
また緑豊かな大原の里は京の喧噪を嫌って移り住んできた貴族や文人の隠棲の地でもありました。実際貞観2年(860)には文徳天皇の第一皇子であった惟喬(これたか)親王が、そして宇多天皇の孫であった源雅信が地位を捨てて大原にその身を沈めています。
参道
また天台声明を大成した良忍の名も忘れてはなりません。良忍は23歳頃に比叡山を下りて大原隠棲を開始、毎日念仏を六万編唱え、手足の指を切り燃やすなどの苦行を続けました。その一方で融通念仏の専門道場としての来迎院を再興、また円仁らが伝えた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させました。その功績を讃えて安永2年(1773)には後桃園天皇から聖応大師の謚号が与えられています。
山深み 駆るるかせぎのけ近さに 遠ざかるほどぞ知らるる(贈歌)
西行
もろともに 秋も山路も深ければ しかぞ悲しき大原の里(返歌)
寂然法師
三千院の境内は全域が開けた庭園の趣をなしています。
とりわけ名のついた聚碧園(しゅうへきえん)と有清園の美しさには目を見張るものがあるでしょう。
聚碧園は靴を脱いで客殿から入り回廊を巡る折に立ち現れる庭園で、江戸時代の茶人である金森宗和(かなもりそうわ)の手により作庭されました。小さな池にツツジやカエデの木が彩を与え、季節に応じて様変わる風光は参詣者の心に静かな感動を与えてくれます。
聚碧園
有清園は回廊を巡った先の宸殿入口前に広がる庭園で、宸殿から往生極楽院に通じる参道の両脇にスギやヒノキにヒバや苔といった多種の緑が生育しています。東側には池泉があり、山畔を利用して三段式となった細波の滝からこの泉へ水が静かに流れ落ちています。その水の音、風の音、そして靴が踏み鳴らす土の音までもが静寂に包まれた庭中にあっては具体的な輪郭を伴ったイメージとして体の中に浸透してくるようでした。さらに耳をそばだてれば、寂然法師が耳にした鹿の鳴く声すら聞こえてきたかもしれません。
宸殿。三千院の最も重要な法要である御懺法講の行われる場所で、その伝統は後白河法皇の時代にまでさかのぼるとされています
両脇には有清園
往生極楽院は源信が父母のために建立した御堂で、船底天井の堂内に本尊である阿弥陀如来坐像が祀られています。その脇侍の観世音菩薩、大勢至菩薩の三尊併せてこの世の極楽浄土を表しているのだそう。そして金胎曼荼羅、二十五菩薩、宝相華などの荘厳な絵画がその極楽浄土の気配によりいっそうの深みを与えているようでした。
往生極楽院
さらに三千院には弁天池を横目に石段を上がった奥の院に祈願道場として平成元年完成した金色不動堂が建っています。堂内には智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)によって作られた金色不動明王立像が安置されていますが、こちらは秘仏により公開はされていません。その他、奥の院には観音堂、その横手には緩やかな傾斜に石と木立を配した慈眼の庭が広がっていますので、全てを巡り、ぜひとも静寂の中に漂う歴史の偉大な力をその身に感じてみていただければと思います。
弁財天
金色不動堂。時節には桜や紫陽花の花が綺麗にお堂を彩ります
観音堂
慈眼の庭
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アクセス
京都府京都市左京区大原来迎院町540
TEL 075-744-2531
地下鉄烏丸線国際会館駅下車 京都バス大原バス停下車徒歩約10分
阪急出町柳駅下車 京都バス大原バス停下車徒歩約10分
詳しくは、下記オフィシャルサイトをご覧ください。
http://www.sanzenin.or.jp/
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