門跡寺院としての矜持「青蓮院」

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三千院、妙法院とともに天台宗三門跡寺院の一つに数えられる青蓮院。天台宗の祖である最澄が比叡山を開くにあたって築いた青蓮坊をその起源としています。その坊には古来より延暦寺に属する著名な僧侶が住まい、開基である最澄は元より、円仁、安恵、相応などが立地する比叡山の東塔の南谷より天台宗の教えを広めていきました。

 

山下に移転されたのは久安6年(1150)の頃、行玄大僧正の元へ鳥羽法皇が帰依し、その第7皇子である覚快法親王も行玄の弟子として入寺。次いで京都に殿舎が築かれると、その名を現在の寺名である青蓮院と称するようになりました。ちなみに門跡寺院とは住職が皇室或いは摂関家によって受け継がれてきたお寺のことで、青蓮院も第一世である行玄以後は明治に至るまでその決まりに従い歴代の門主は決められていました。

 

正門

 

その第三世である慈円も藤原兼実の弟として青蓮院門主を務めています。慈円と言えば日本人初の歴史哲学者として不朽の名著「愚管抄」を記したことで有名ですね。またその一方で稀代の歌い手として「拾玉集」や「千載和歌集」でもその名が採り上げられています。
更には4度の天台座主を務めるかたわら、他宗の教徒を厚く庇護したことでも知られ、例えば浄土宗の法然には院内の一坊を与えています。これが後に勢至堂となり、知恩院の起源を形作ることになった点はぜひともおさえておくべきポイントでしょうか。

 

植髪堂

 

浄土真宗の祖である親鸞も元は青蓮院で9歳の折に得度しています。伝説によれば、夜に寺の門を叩いた親鸞に慈円が「もう今日は遅いから明日にしよう」と提案したところ、まだ幼い親鸞が次のような名句を詠んだそうです

 

明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
(桜の花が嵐ではかなく散ってしまうように、私の命もいつなくなってしまうか分からない。だからどうか今ここで得度の儀式を行ってください)

 

これに感得した慈円はすぐさま得度の準備を始めたのだそうです。慈円と親鸞の人間性が伺える心温まるエピソードですね。ちなみに青蓮院の植髪堂の内部には今でも得度した折の親鸞の剃髪が奉られています。親鸞の手植えとされる堂の脇の楠の巨木とともにぜひともご覧になってみてくださいね。

 

三千院でもそうであったように青蓮院も境内ほとんど全域が広大な庭園といった様相を呈しています。とりわけ華頂殿と小御所と好文亭に囲まれた場所に広がる霧島の庭、相阿弥の庭の2庭が院の代表的な主庭であると言えるでしょうか。

 

相阿弥の庭

 

霧島の庭

 

霧島の庭は華頂殿の東面に広がる庭で、山裾の斜面から一面に霧島つつじが植えられていることからその名がつきました。小堀遠州の作と伝えられ、霧島つつじの他にも梔子(くちなし)や馬酔木(あせび)の花も点在しているようでした。また華頂殿から小御所を渡す廊下に面しては相阿弥の庭が広がっています。池に浮かぶ石組の配置やその池の上に架かる花崗岩でできた石橋など、先の霧島の庭とは別種の趣が漂っています。池は龍心池(りゅうしんち)、そして石橋は跨龍橋(こりゅうのはし)と呼ばれているようです。

 

左近の桜と宸殿(主要な法要が行われるお堂。有縁の天皇及び歴代門主のご尊牌を祀っています)

 

小御所。明治に焼失、現在のものは江戸中期の建物を移築しています

 

小華頂殿。殿内には三十六歌仙額絵が飾られています

 

ところで小御所の渡り廊下に面した位置に巨大な自然石でできた手水鉢が据えられています。木札には「一文字手水鉢」との記載があり、言い伝えによれば豊臣秀吉が寄進したものだとされているようです。取水鉢の周囲には季節の花々が咲き誇り、水面に落ちたそれらの影が風で静かに揺れている様子が殊に印象的でした。

 

本堂(熾盛光堂)。本尊である熾盛光如来をはじめ、7体の仏像が祀られています。

 

親鸞聖人童形像(左)と歌碑(右)。

 

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