日本人なら知っておきたい“千利休”

Q:お茶の歴史の話になると必ず登場する千利休。なぜ、戦国武将の織田信長や豊臣秀吉は、茶人の千利休を重用したのでしょうか?
A:町人の生み出したお茶文化が武士にも広まり、信長や秀吉もしばしば茶会を催しました。その際、取り仕切る人物が必要だったからです。そして、茶の湯は政治の道具にもなっていきました。

 

 

「今から約500年前の1522年、現在の大阪府堺市で商人の長男として生まれた千利休は、19歳の時に父親が亡くなり、若くして当主になりました。その後、商売に成功して有力な商人となり、商人同士の付き合いに必要で習い始めた茶の湯に打ち込みました。
利休は織田信長や豊臣秀吉に仕え、茶の湯をつかさどる茶頭(茶堂・さどう)を務めたことで有名です。茶頭とは、将軍家や諸大名に仕え、茶の湯の準備や座敷の飾りつけ、美術品の鑑定、購入などを担当する責任者のことです。
信長は利休含め3人を茶頭として召し抱えましたが、これは彼らの持つ経済力と情報を政治的に利用するためでもありました。

 

 

茶の湯の大成

信長配下の武将もお茶をたしなみ、配下の1人である秀吉と親しくなったのが利休でした。1582年に本能寺の変が起きて信長が暗殺され、後に秀吉が天下統一を果たしたことは利休の大きな転機となりました。秀吉はことのほか茶の湯に熱心で、安土桃山時代に茶の湯が大成したのは、秀吉という権力者の存在があったからです。利休の茶の湯は、天下人である秀吉がバックにいたからこそ、茶の湯の基準になったと言えます。

 

貿易で中国から来た陶器や茶道具は唐物(からもの)と呼ばれ、これを用いて格式を重んじていた書院の茶に対し、利休はこれらの唐物名物の茶道具を買い集めることはしませんでした。秀吉に仕えて天下一の茶人となってからも、心の静けさという精神面を求めたわび茶を貫き、それを洗練させ、茶の湯の主流としたのです。
秀吉は茶の湯を政治的に利用するために、しばしば茶会を催しました。茶の湯を好んだ理由は、密談がしやすかったこと、プライベートな狭い空間にお客を招き、自らお茶を点ててふるまうことによって親近感をもたせられたことなどが挙げられます。
秀吉のもとでも茶頭を務めることになった利休は、秀吉の側近として親密な間柄になりました。秀吉が催した茶会で最も有名なのが、1587年、京都の北野天満宮で開いた北野大茶湯です。境内を区切った茶席が300以上並び、誰でも参加してよかったので1000人以上が集まったと伝えられています。この大茶会を取り仕切ったのが利休で、茶の湯という文化を広めると同時に、秀吉の威光を広める好機会となりました。

 

突然の死、利休の精神を三千家が継承

それから4年後の1591年、利休の最期は突然やってきました。秀吉の怒りをかって切腹を言い渡され、70年の生涯を閉じたのです。
利休自身は何も書き残しておらず、茶の湯に対する考えを示す格言や逸話は多く伝わっていますが、そのほとんどに根拠がありません。相当良い家柄でなければ武士でさえその系譜は信頼できないものが多いので、もともと一介の町人にすぎなかった千利休の出身や動向がはっきりわかるものはほとんどなく、後世になって作り上げられた感のものが多いのです。なぜ秀吉の怒りをかい、自害に至ったのかなど、謎に包まれているからこそ人々は利休に興味をそそられるのかもしれません。

 

 

利休の死後、利休の子孫は表千家、裏千家、武者小路千家の三千家をつくりました。
三千家の名前は茶室のある場所に由来しています。不審庵は利休が営んだ茶室の名で、これを表千家、不審庵の裏に位置する今日庵は裏千家、官休庵はその所在地名から武者小路千家と通称され、現在に至っています。利休の茶の湯の精神はこれら三千家が受け継ぎ、現代にしっかりと伝えられています。

 

【参考資料・web】

日本茶のすべてがわかる本 日本茶検定公式テキスト(日本茶インストラクター協会 企画・編集、日本茶検定委員会 監修/農山漁村文化協会 発売)
茶の湯の歴史(神津朝夫 著/角川学芸出版 発行)
千利休のすべて(米原正義 編/新人物往来社 発行)