賢人の劇的な出会い ~聖徳太子と達磨大師~「達磨寺」

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達磨寺の境内には珍しくも3つの古墳(6世紀頃の構造)が存在しています。いずれの古墳からも貴重な宝物品が発見されており、本堂の東北隅にある1号墳からはガラス小玉や須恵器が、そして2号墳からは江戸時代の銭貨である寛永通宝などが出土しました。その発見された品々からそこに埋葬された人物が厚い尊崇の対象とみなされていたことが伺えますね。とりわけその象徴としてあるのが寺の本堂下に築かれた達磨寺3号墳でしょう。そこには禅宗の開祖として名高く、今では赤いダルマのモデルとしても知られる達磨大師が眠っているとの伝承が今に残っているのです。事実、本堂の改築工事に伴って実施された発掘調査では、多数の副葬品が出土しています

 

正門

 

また「日本書紀」や「元亨釈書」に記された通称「片岡山飢人伝説」を読むことで、この寺が達磨の名を冠した理由を紐解くことができます。
推古天皇21年(613)のこと。聖徳太子が片岡山を通りかかった折、飢えと寒さで死にかけている異人を見かけました。捨て置くこともできず、太子はその異人に当座の衣服や食物を与えるのですが、翌日遣いをやって見に行かせたところ、すでに異人の息はなく、哀れに思った太子は墓を築いたうえ丁寧に異人を埋葬しました。ところが後日再び寺に参ってみると棺からあの異人の遺体が消えている。棺の上には太子が与えた衣服がきちんと折りたたまれた状態で残されていました。結局その異人の行く先は分からぬままでしたが、一方でその不思議な逸話だけが巷間伝わり、その異人こそが達磨大師の化身であったと信じられるようになりました。これに感得した太子は自ら彫った達磨の木像を寺に祀り、後に寺の名を達磨寺と命名しました。

 

そうした経緯もあって寺の境内には太子と達磨にゆかり深いスポットが多数据えられています。例えば3号墳の上に築かれた本堂には中央に安置された先手観音像両脇にそれぞれ聖徳太子像と達磨像が鎮座しています。先手観音像の右隣にある聖徳太子像はその像高93.2センチの寄木造り、膝裏には「大仏師法印院恵/作者法橋院道/建治三年十一月日」という銘文があることからこの像が鎌倉時代の建治3年(1277)に仏師の院恵と院道の手により造られたことが分かります。

 

また千手観音像の左隣にある達磨像は像高88センチの寄木造り、像底には同じく碑文が記され、これによりこの像が室町時代の水草2年(1430)に足利義教の命によって仏師の集慶の手により造られたことが分かります。
二つを見比べてみると、聖徳太子像が少し硬い表情であるのに比して達磨像は結んだ唇から前歯2本を出している個性的な表情をしているのが特徴でしょうか。

 

本堂。通常本堂は閉まっていますが、土日は自由に見学が可能

 

さて、本堂を参ったあとは、その本堂の角にある問答石にも寄ってみてください。
ここは太子と達磨が初めて出会い、また二人の賢人が初めて歌を詠み交わした場所であるとされています。ちょうど横に伏せているように見える石が達磨石で、そこから南に約10メートルの距離にある石が太子石となっています。

 

問答石

 

また本堂の西南には聖徳太子の愛犬であった雪丸像が据えられています。伝説によれば雪丸は犬でありながら人と意思の疎通ができたようで、かつては境内東北隅にある1号墳に雪丸が埋葬されていたのも、その臨終の間際に「本堂の東北隅に葬ってほしい」とまさに雪丸自身が話したからに他なりません。
現在では町のマスコットキャラクターとしても活躍する雪丸、その像に触れてみることでもしかすると何事か力強い言葉を語りかけてくるかもしれませんよ。

 

雪丸像

 

一夜竹。達磨大師御杖竹とも呼ばれ、達磨大師が携えていた竹杖を挿したところ、一夜にして芽が出てきた伝説を持ちます

 

1号墳

 

松永久秀の墓。天正5年(1577)に信長によって包囲された末、自害した松永久秀の首級がここに埋葬されています

 

忠魂碑

 

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