皇族の菩提寺「泉湧寺」

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泉涌寺(せんにゅうじ)の創建は諸説あるようですが、寺の由緒書きによれば、天長年間(824年-834年)に弘法大師がこの地に草庵を結び、それを法輪寺と名付けたことをその創始とする説が一般的のようです。法輪寺はその後、仙遊寺と呼ばれた時期を経たあと、順徳天皇の時代に泉涌寺とその名を改称。その名のゆえは 建保6年(1218)、寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊芿(がちりんだいし・しゅんじょう)が宋の方式を取り入れた大伽藍を造営していた折に、境内の一角より清泉が湧き出たことによっているようです。

 

大門

 

肥後国(熊本県)に生まれた俊芿は、寿永3年(1183)まだ若干18歳の折に出家剃髪し大宰府は観世音寺で具足戒を受けました。その後、正治元年(1199)には大きな志をもって宋へと渡り、その地にて各大家から禅、律、天台数学の奥義を学ぶと、帰国の後に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場(律を含めた五宗兼学とする場合も)としての泉湧寺を創建しました。程なく俊芿は北京律の祖と仰がれるようになります。

 

参道

 

公家武家双方からの帰依深く、貞応3年(1224年)には後堀河天皇から皇室の祈願寺と定められた俊芿の元には後鳥羽、順徳、後高倉院のほか、北条政子や北条泰時が訪れ受戒を授かったといいます。また俊芿入滅後も時の皇室からの帰依は尽きず、仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られると、江戸時代の後水尾天皇以下、幕末の孝明天皇に至る歴代天皇の墳墓がこの寺に築かれるようになりました。
泉涌寺が別名「御寺」と称されるのはここが皇室の菩提寺として今なお厚い信仰集めているからなんですね。

 

仏殿。現在のものは寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建されました。内部には釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒如来の三世仏が安置されています

 

舎利殿。慶長年間、京都御所の建物を移築改装したもので、内部には釈迦の仏牙舎利を奉安しています

 

実際、泉涌寺を歩いていると幾つか皇室との深い縁を感じられる場所が点在していました。その一つが背後の山腹に抱かれるように鎮まる月輪陵(つきのわみさぎ)。ここには上にも記したよう四条天皇をはじめ、後水尾天皇や仁孝天皇(なお孝明天皇は月輪陵の背後の山腹内、後月輪東山陵に埋葬されています)など25陵、5灰塚、9墓が営まれています。足を踏み入れることさえ恐れ多い、どこか厳かな空気が漂っているようでした。

 

月輪陵

 

またその西の方にある霊明殿では天智天皇以来の御尊牌が奉祀されています。現在の建物は明治17年に明治天皇によって再建され、内部にある荘厳具は明治天皇以降の皇族によって贈られたものだとされています。

 

霊明殿

 

泉涌寺と日本の皇族の浅からぬ縁を感じた後は、大門入って左手奥にある楊貴妃観音堂も忘れず参りましょう。内部に安置されているのは寛喜2年(1230)に湛海律師が手がけた聖観音像。この像が別称、楊貴妃観音と呼ばれているのは唐の皇帝玄宗がその妃であった楊貴妃の冥福を祈って造らせた像ではないかとの伝承が今に伝わっているからなんですね。
楊貴妃といえば世界三大美女の一人に数えられるほどの美貌の持ち主でありました。
それを物語るようにこの麗しき像容をもつ楊貴妃観音に参ることで、美人祈願、縁結びに強い効験があるとのこと。泉涌寺においては霊明殿、月輪陵に並んで、とても人気の高いパワースポットとなっていますので、ぜひお立ち寄りになってみてはと思います。

 

楊貴妃観音堂

 

そして上に負けず劣らず人気なのが三世仏を祀った本堂脇にある泉涌水屋形。その屋形の内部には、俊芿が伽藍を造営していた折に湧き出た泉が今なおコンコンと湧出しています。残念ながらその屋形の内側を覗き見ることはできませんが、外側からでも、その清き水の流れを聞くことはできるでしょう。皇族と同じように泉涌寺は自然とも長年手をとりあって歴史を刻んできたお寺なのです。

 

泉湧水屋形

 

御座所庭園。「春ふけて 雨のそぼふるいけ水に かじかなくなり ここ泉涌寺」 昭和天皇この庭園を題に詠んだ歌

 

宝物館心照殿。寺の仏像仏画などを展示しています

 

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アクセス

京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
TEL 075-561-1551
京都駅(烏丸口)から、市バス(208)にて泉涌寺道下車、徒歩7分
奈良線東福寺駅から徒歩10分
詳しくは、下記オフィシャルサイトをご覧ください。
http://www.mitera.org/
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