血気盛んな“やらまいか精神”を受継ぐ「浜松まつり会館」

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毎年5月3・4・5日の3日間に催される浜松まつりは、神社仏閣の祭礼とは関わりのない市民参加型の都市祭りとして受け継がれてきました。昼間に中田島砂丘で行われる「凧合戦」、夕暮れ時になると中心市街に集まる豪華な「御殿屋台」、祭りの熱気が最高潮に達したときの「激練り」などがこの祭りの見所です。

 

     中田島街道からの目印は「凧の看板」

 

浜松まつり会館の外観

 

浜松まつりの魅力を発信しながら、地域の祭りを支えるため「浜松まつり会館」ができたのは昭和60年のことです。施設の順路通り「ハイビジョンルーム」で祭りのことを知ったら、「凧糸製造室」、「大凧展示室」、「御殿屋台展示室」へと進めば、浜松まつりの流れを見て感じられるようになっています。

 

三方原合戦の折、徳川家康が危急を逃れてから伝統芸能となった「浜松出世太鼓」

 

麻から凧糸になるまでの過程がわかる「凧糸製造室」

 

浜松の凧あげ文化は、遠州灘に吹く“遠州のからっ風”によってはぐくまれてきました。一説によると、凧あげの起源は440~450年前、浜松を治めていた引馬城主の長男誕生を祝って、町民が大凧をあげたことだとされています。そのため浜松まつりであげられる凧は2~10帖(1辺1.5m~3.64m)の大凧で、凧あげ合戦には4~6帖が適しているそうです。

 

現在では長男に限らず、誕生した子どもの成長を願って4帖(1辺2.4m)の「初凧」があげられます。そして各町が一丸となって凧をあげ、他の町があげている凧の糸を切り合う「ケンカ凧」も浜松まつりの風物詩です。

 

「大凧展示室」

 

浜松まつりの様子「初凧」

 

上空高くあがった凧がどこの町のものかを見分けるために「凧印」がはじまったのは明治33年頃。凧印に町の歴史や町同士のつながりが描かれていることもあります。たとえば三方原の戦いで追われた徳川家康が小豆餅を食べた町である「小豆餅」の凧印は杵と銭で「小」、家康に追いついて銭を取った「泉(銭取)」の凧印は大きな銭のマークです。そして“おかめ”の凧印である「高町」のお世話になった「芳川町神出」の凧印は“ひょっとこ”になったとか。

 

  凧印「小豆餅」

 

  凧印「泉(銭取)」

 

「凧印」に昔話を聞く面白さがあるとしたら、時代ごとの変化を楽しみたいのが屋台です。現在は絢爛豪華な「御殿屋台」ですが、はじまりは凧あげ会場に弁当や湯茶を運んだ「大八車」でした。それに車輪がつき、提灯や造花などがつきながら町同士で豪華さを競うようになったそうです。昭和3年に曲線の屋根や彫刻を入れた屋台が市民を驚かせてから、各町が鎬を削り合い現在の姿に至ります。

 

屋台を引きまわす浜松まつりの様子を大画面と大音量で感じられる「御殿屋台展示室」では、それぞれの感性で浜松まつりに想いを馳せることができます。ひたすら写真に収める人も、じっくりと屋台を観察している人もいました。大正初期の「底抜け屋台」には庶民的な味わいがあり、また「浜松市政80周年記念の御殿屋台」は宮大工の繊細さが魅力でした。

 

再現された大正初期の「底抜け屋台」

 

      浜松市政80周年記念の「御殿屋台」

 

再びスタート地点のロビーに戻ると、入館したときには通り過ぎた「凧印」のポスターに不思議と足が留まりました。そしてロビーに展示された凧あげ合戦用の大凧にも、ロマンを感じ始めました。館内には丁寧な説明が添えられていますが、心底浜松まつりを愛する館内スタッフに解説してもらうと、また新たな視点が芽生えますよ。

 

「浜松まつり会館」を訪れたら、今度は本物の浜松まつりを体感してみたくなることでしょう。平成25年度には凧あげ合戦の参加が173ヶ町、御殿屋台引きまわしの参加が86ヶ町と、年々増え続けているそうです。祭り文化に培われた血気盛んな“やらまいか精神”は、おっとりした静岡県民のイメージをみごとにぶち破るものでした。その熱気は訪れた人々に明日からの活力を与え続けています。

 

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●アクセス

静岡県浜松市南区中田島町1313
TEL 053-441-6211
浜松駅より遠鉄バス中田島線で約10分、「中田島砂丘」で下車

詳しくは下記オフィシャルサイトをご覧ください。

http://www.hamamatsu-navi.jp/matsuri/index.html

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