末法の世界の救世主「平等院」

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幾つかの山に囲まれ、宇治の清流が貫流するこの地は平安初期にあって風光明媚な場所として知られ、源氏物語の舞台になったことからも早くから貴族たちの別荘が多く営まれていました。そのうちの一つ、光源氏のモデルとして名高い源融(みなもとのとおる)が貞観元年(859)に築いた「宇治院」は平等院創建の始まりの離宮であると言われています。

 

源融が亡くなって以後の宇治院の変遷は、一頃陽成天皇の離宮となってからは宇多天皇へと渡り、朱雀天皇、源重信を経てその夫人より当時左大臣関白であった藤原道長が長徳4年(998)に譲り受ければ、名称を「宇治殿」と改名、長らくこの別荘で景観を楽しみましたが、その道長も万寿4年(1127)に没すると、その子頼道が宇治殿を引き継ぎ、永承7年(1052)に本堂を完成させた後は仏寺に改めその名を「平等院」としました。しかしなぜ頼道は譲り受けた別荘を寺へと改めたのでしょう。調べてみるとそこには当時世間を震撼させていた末法思想が深く根を降ろしていました。

 

平等院南門

 

浄土院。頼政の木像や頼政の利用した弓が安置されています

 

末法思想とは釈迦の死後に訪れる「正」、「像」、「末」の三時の思想のことを言います。
正法の時代は釈迦の教義(教)と教義に従った正しい行い(行)、そしてその修行による悟り(証)の3つがそろった状態、しかし次の像法の時代は教と行はあっても証が欠けた状態で、末法の時代に至っては教のみで、行も証もないがゆえに人心は乱れ、天変地異が続発し、秩序が崩壊する、そして1052年という時代はちょうど釈迦の死後1000年を経過した末法初年にあたるとされていたのです。
もっとも、国の体勢が盤石であったならばこのような末法思想にもうろたえることもなかったのでしょう。しかし時勢は藤原氏の衰微に舵を切り、末法の世を反映するかの如く、疫病が流行し、天変地異が続発しました。加えて僧兵の横行や政治の腐敗などによって治安や経済は乱れに乱れ、ゆえに末法の不安を拭い、極楽浄土に救いを見出すため頼道は平等院を完成させ、その機能を寺へと改めたのです。

 

その頼道の想いの具現化されたものが本堂である鳳凰堂です。鳳凰堂は元は阿弥陀堂と呼ばれていましたが、屋根上に鳳凰の飾りがあることから江戸時代頃からそのように呼ばれるようになりました。構造的には中堂、左右の翼廊、尾廊の4廊からなり、その堂内には平安時代を代表する仏師定朝作の阿弥陀如来が鎮座しています。その他、堂内には雲中供養菩薩像など52体、また壁扉画として9通りの来迎図が描かれるなど、総じて荘厳な極楽浄土の様相をていしていますが、周囲を阿字池に囲まれ建つ鳳凰堂はまさに極楽浄土へ寄せる頼道の想いの現れそのものといっていいでしょう。
なお鳳凰堂はおよそ1年半の間、屋根の葺き替え及び塗装工事のため長らく拝観が出来ませんでした。しかし現在は工期も終わり、平成26年4月3日より鳳凰堂の内部は有料で開放されています。鮮やかな赤で塗り替えられた鳳凰堂をぜひその目で眺めてみてくださいね。

 

鳳凰堂正面

 

鳳凰堂。南側から撮影

 

ところでこの鳳凰堂、歴史を通じ、幾度も改修が繰り返されてきました。今回の平成の大修理では、昭和の大修理にたずさわった職人らの落書きが瓦の下から発見された件でも注目されましたね。時代をさかのぼればちょうど末法の世に入り僧兵なる武装集団が現出しだした頃より、鳳凰堂の境内、極楽浄土の地は戦火の渦に巻き込まれその被害は甚大なものとなっていきました。例えば皇位継承の争いである保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、新興の武装集団が平氏一門として頭角を現し、それに対抗するべく以仁王が源頼政と手を結べば治承4年(1180年)には諸国の源氏へ挙兵を促しクーデターが勃発、すると不幸にもその戦乱にあって直接の戦いの場とされたのが平等院なのでした。世に名高い「橋合戦」と称される戦乱ですね。平家物語にも有名ですが、しかしおよそ2万8千の兵士の軍勢に頼政を筆頭とする源氏勢力は成す術なく完敗します。負けた頼政はそのまま平等院に入り、自刃しますが、その場所が平等院境内に「扇の芝」として今も残っています。
記録によれば流れ矢に血を流す頼政は「我が首を討て」と家臣に命じると、おもむろに手を合わせ「南無阿弥陀仏」と10回唱えた後、軍扇を開き厳かに辞世の歌を詠んだそうです。

 

『埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ悲しかりける』

 

扇の芝。辞世の歌が石碑に刻まれています

 

頼政の墓

 

最勝院には葉影を落とした頼政の墓がひっそりと建っています。
藤原氏の物語を鳳凰堂に見た後は是非に武士の時代の死の美学も併せて感じとってみてください。

 

石造層塔。民間伝承の石塔として随一の造形美を誇るとされています。鉱山王の異名をとる久原房之助が惜愛したもの

 

観音堂。鎌倉時代初期の建築。国の重要文化財に指定されています

 

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