日本を代表する縁切りスポット ~崇徳天皇の気配に触れる~「安井金比羅宮」

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安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)は天智天皇の治世(668~671年)に藤原鎌足が当地に仏堂を建立したあと、脇に紫の藤を植えて家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことにその創始を持ちます。別称を藤寺と号し、時節になると咲き誇る藤の花が鮮やかに神社の境内を彩ります。その景観は筆舌に尽くしがたく、実際寺にやってきた崇徳天皇はこの藤の様を殊更好み、久安2年(1146年)には寺の堂塔を修造したすえ、当時天皇が寵愛していた阿波内侍(あわのないし)をここに住まわせた記録が今に残っています。

 

鳥居

 

なお当時はその名を光明院観勝寺と称していました。それが応仁の乱の兵火によって無残にも荒廃、元禄8年(1695年)になって京都は太秦から蓮華光院が移建されると、その鎮守として崇徳天皇を祀り、明治維新を経たのち安井神社、そして安井金比羅宮とその名を改め今に至っています。通称「安井の金比羅さん」の名で親しまれているのは本堂に崇徳天皇のほか、讃岐の金刀比羅宮から勧請した大物主神と源頼政公を祀っていることに由来しているようです。

 

参道

 

さて、安井金比羅宮といえば縁切りの霊験において非常によく知られた神社。参ることで男女の縁はもちろんのこと病気や酒に煙草や賭け事を断てるなど多岐にわたってそのご利益を得られます。そしてその象徴としてあるのが金比羅会館前に据えられた縁切り縁結び碑でしょうか。高さ1.5メートル、幅3メートルの絵馬の形をした巨石ですが、その地は幾重にも張られたお札によって完全にマスクされています。しかしこの巨石、かなり禍々しい気配を帯びています。今まで数多くの神社仏閣に足を運んできましたが、一見してその異様な迫力に動けなくなったのはここが初めてかもしれません。改めてこの碑が日本を代表する由緒ある縁切り(縁を結ぶご利益もあり)のパワースポットであることを再認識させられたような気分でした。

 

縁切り・縁結び碑

 

おそらくこの異様な迫力を醸し出している一つに祭神である崇徳天皇の存在もあるのでしょう。日本の三大怨霊(他、菅原道真と平将門)の一人に数えられる崇徳天皇は自身の複雑な生い立ちから常より一族との骨肉の争いが絶えませんでした。とりわけ弟に当たる後白河天皇と激しく争った保元の乱(1156年)では、敗れたのち讃岐に流され軟禁生活をおくる羽目となります。それがよほど悔しかったのか、後には舌をかみ切り「われは日本の大魔王となりて天皇を呪い続ける」と写本に血で書きこんだとか。実際崇徳天皇の死後には、天皇家に原因不明の突然死が

 

金比羅会館。昭和51年に開館した日本初の絵馬ギャラリー

 

本殿

 

なお縁切り縁結び碑の関連でいえば、讃岐に流された崇徳天皇が仏教に深く帰依して一切の欲を「断ち切って」参籠(おこもり)されたことがその端にあるようです。
せっかくですから縁を断ち切る前に、その祈願の作法を学ぶことにしましょう。本殿に参拝したあと身代わりのお札である形代(かたしろ)に切りたい縁や結びたい縁を書き込みます。それを持ったまま碑の穴の表から裏へくぐり(悪縁が切れる)、次に裏から表へくぐります(良縁を結ぶ)。そして最後に形代を碑に貼ることで願いの成就が高まるようです。どうぞ厳かな気持ちで実践してみてください。

 

三玉稲荷社

 

安井天満宮

 

ちなみに安井金比羅宮は縁切りのほか、古くから道開きの神様として知られる大物主神を祀っていることより海上安全、交通安全のご利益も得られるようです。大物主神は国の守護神でもありますから、願えばきっと大きな力になってくれると思いますよ。

 

久志塚。古くなった櫛がこの塚に供養されています。櫛まつりでは供養後に装束をまとった時代風俗行列が界隈の祇園を練り歩きます

 

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