今は世界中からやってくる船で混雑する東京湾も、江戸時代は漁業が盛んでした。現在の中央区佃のあたりは江戸前の海で漁業をするには便利な場所でした。この島に暮らす漁師たちが大阪から移り住んで、佃煮を作るようになったのは今から400年以上も昔のことでした。
明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で倒れた時、家康は少ない手勢と共に堺にいました。本拠地の岡崎城に早く戻りたいのですが、その帰路は既に包囲されていました。奇策で逆方向へ迂回する途中、一行が今の大阪市住吉区の神崎川付近にさしかかった時、渡る舟がなかったので困っていました。その時、近くの佃村の人たちが漁船と、不漁の時にと備蓄していた小魚煮を食糧として用意したのでした。人里離れた海路や山道を通って決死の脱出行に臨む家康らにとって、その小魚煮は日持ちも良く、体力維持にも効果を発揮しました。
何とか岡崎城ヘたどりついたのですが、家康は皆と食べた小魚煮のありがたさを身にしみて感じたようです。このことがきっかけで、関西の佃村、現在の大阪府西淀川区佃から漁師たちが家康の招きで江戸に移り住み、特別の漁業権を持つようになったのでした。
江戸幕府の台所へ出入自由となった佃島の漁民達は、江戸前の新鮮な白魚を主に献上魚に、残った雑魚を江戸市中で商いし、生計を立てていました。また昔からの知恵で、海が荒れて漁に出られない時のために、小さな雑魚は自家用にして保存食を作っていました。
初めは雑魚や貝類を塩で煮つけたものでしたが、それが醤油に代わり、さらに味醂やざらめなども加えて、特有の照りを出すようになると、「江戸名物・佃煮」として江戸の大名らの食膳にも上るようになりました。国元への大名土産としても扱われるようになり、いつしか江戸の佃煮は日本全国に広がっていきました。
佃煮には巧妙な知恵が幾つもあります。その第一は保存がきくこと。醤油、砂糖、水飴などで濃い味に煮つめるので、浸透圧が非常に高くなり、微生物が入り込む余地がなくなるのです。
第二の知恵は、味が濃いので少量でも十分にご飯のおかずになること。早食いの日本人には適したものした。
第三は佃煮という調理法は材料を限定せず、採れすぎた魚介類はほとんどが材料になること。牛肉や茸、海藻、さらには蜂の子やイナゴのような昆虫までもが材料となるのです。
そして第四には土地の特産物を佃煮にすることで、ことごとく名産品に加工してしまうことです。ゴリと胡桃の佃煮といえば金沢、ハゼや小エビ、のりなら東京、ワカサギや鮒の雀焼きなら霞ヶ浦、鯉なら山形、鰻は静岡、ハマグリなら桑名というように。佃煮に関する名物の土産がない都道府県は皆無と言えるのではないでしょうか。日本全国が佃煮天国なのです。
また生鮮品で食することに比べて、リン、カルシウム、マグネシウムなどの栄養補給にも最適で、かつ大半の魚介類はそのまま食べられるので、粗食の日本人の食卓では大変重宝されてきました。
「昔から食通の間では、ゴリの佃煮の茶漬けは、茶漬けの王者として珍重されている。これさえ食べれば一躍茶漬けの天下取りになれるわけであるから、是非試すべき」と食聖・北大路魯山人にさえ言わせたのが佃煮なのです。
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【参考資料・web】
「佃煮の歴史」日本食品新聞社
「食と日本人の知恵(著:小泉武夫)」岩波現代文庫
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