鎌倉駅前からバスに乗ってめざしたのは、厄除けで知られる「鎌倉宮」です。創建明治2(1869)年の鎌倉宮は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての第96代天皇・後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりながしんのう)をご祭神とする神社です。
鎌倉駅から離れているので、観光客は少なく落ち着いた雰囲気の「鎌倉宮」
厄(わるいもの)を祓ってくれる『厄割り石』
後醍醐天皇は歴史の授業でも習うほど有名な人物ですが、その皇子・護良親王について知る人は多くないでしょう。鎌倉幕府が滅亡し、天皇親政が復活(建武の親政)すると、護良親王は征夷大将軍に任じられました。しかしその後、足利尊氏と対立して捕らえられ、28歳で非業の最期を遂げた、悲運の皇子です。鎌倉宮の社殿の後ろ手に残る土牢が、護良親王の最期の場所と伝えられています。
非業の最期を遂げた護良親王がご祭神だからかどうか定かではありませんが、鎌倉宮は厄を落とす『厄割り石』が有名で、そのために訪れる人が後を絶ちません。鎌倉宮の大きな鳥居をくぐると、探すまでもなく、すぐ右手に厄割り石はあります。
この厄割り石、どのようにすれば厄を祓えるのかというと、はじめに初穂料100円をおさめて盃をいただきます。その盃に大きく息を吹きかけ、大きな厄割り石に思いっきり投げて割るのです。そうすると厄(わるいもの)は祓われて、健康に過ごすことができるそうです。気合を入れすぎて鬼のような形相で盃を投げて叩き割っている姿は、周囲の誰にも見られたくありませんが、盃を投げつけて叩き割る、この行為はかなりスッキリと爽快な気分になれます。実はこの厄割り石は社殿に近いところに、もう一カ所あります。2回投げるも良し、どちらか人が少ない方を選んで渾身の力を込めて投げるも良し、ですね。
盃を、奥にある厄割り石に投げて割れば、心身ともにスッキリ
社殿には、大きな獅子頭が鎮座しています
社殿に向かうと、社殿の中に大きく真っ赤な獅子頭が見えます。獅子は、日本では推古天皇の時代に百済から伝えられ、悪魔を祓う神力があると信じられてきました。ご祭神の護良親王も、悪魔祓いとして獅子頭を採用しました。そのため鎌倉宮では、このゆかりの深い獅子頭を、“太平の世を祈願し、あらゆる悪魔を祓い、幸福を招来する”シンボルとして、一般参拝者の人々にも幸運招来の守護として授与しています。
一般参拝者に授与してくれる、幸運招来のシンボル
『撫で身代り』は、忠臣・村上義光がモデル
社殿奥には、さらに護良親王と深い関係のスポットがあります。厄除けや病気平癒の『撫で身代わり』です。鎧を着た武士の像があり、自分や家族の気になる部分と、像の同じ部分を撫で、お守りを受けて祈ると、病気が治るといわれています。
では、この武士はいったい誰なのでしょうか。護良親王に忠誠を尽くした、村上義光という名の武士です。
元弘3(1333)年のお正月、吉野城が落城して、もはやこれまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴を開きました。そこへ駆けつけた村上義光は、鎧になんと16本もの矢を突き立てていて、すさまじい姿でした。そんな瀕死の状態の村上義光は、護良親王の錦の鎧直垂(よろい‐ひたたれ)を代わりに自分が着用すると、こう叫んだのです。「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」。そして、腹を一文字にかき切り、壮絶な最期を遂げました。この間に、護良親王は南に向かって落ちのびたのです。村上義光は、最後の最後まで護良親王のために尽くした、忠臣の中の忠臣でした。
このようにして身代わりとなった村上義光を、境内の樹齢103年の欅(けやき)の大木に彫り上げ、『撫で身代わり』として入魂したのが、先の像です。やさしい顔をして座っている村上義光は、自分にできることはすべてやった!と言わんばかりの、満ち足りた風情です。
撫で身代りのそばにある、参拝者の厄除けや病気平癒の願いが書かれている人形のお守り
鎌倉へ行ったなら、ぜひ護良親王と縁が深い鎌倉宮にも訪れ、一途な家臣・村上義光に想いを馳せ、厄除け祈願をしたらいかがでしょうか。
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アクセス
神奈川県鎌倉市二階堂154
TEL 0467-22-0318
JR「鎌倉駅」よりバス「大塔宮」下車すぐ
http://www.kamakuraguu.jp/
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