藤原氏の氏寺 再建の軌跡をたどる「興福寺」

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興福寺は天智8年(669年)、重病を患った藤原鎌足に妻の鏡女王(かがみのおおきみ)が病気回復を願って仏像建立の発願を行ったことをその創始としています。当初は山科の地に建てられたことから山階寺(やましなでら)と呼ばれていました。しかし壬申の乱が起こり、都が近江から飛鳥の地へと移ると名称を厩坂寺(うまやさかでら)と変更、のちに鎌足の子である不比等が和銅3年(710年)、平城京に再び都を移して今の興福寺へと名称は定まります。

 

名称が定まってのち、天皇や皇后、藤原氏などの手により未整備だった境内に次々と壮大な堂塔が建てられます。それら全ては手厚く保護され、特に藤原北家との関係が深かったことにより、強力な権力を手中にした興福寺はやがて奈良時代には四大寺の一つに数えられるまでに権勢を高めました。そして平安時代には七大寺の一つとして、また同時にその頃には春日社の実権を独占し、大和に存する荘園のほとんど全てを手中におさめていたと言われています。

 

五十二段。五十二という数字には意味があり、仏門に入る修行の段階を示しているそうです

 

東金堂

 

藤原氏の氏寺として栄え絶大な権力を誇った興福寺ですが、そのオリジナルはほとんどが奈良時代、平安時代に建てられたもの。
神亀3年(726年)に聖武天皇が叔母の元正天皇の病気平癒を祈願して建てたのが国宝の東金堂。その堂内には薬師如来(やくしにょらい)を始め、日光月光菩薩や十二神将(じゅうにしんしょう)像など複数の仏像が安置されています。外観は正面が25.6メートル、側面が14.1メートルの寄棟造りの本瓦葺きで、応永18年(1411年)の火災で焼失し、現在の建物は応永22年(1415年)再建の室町時代の建築です。

 

弘仁4年(813年)、藤原北家の藤原冬嗣が父である内麻呂の冥福を祈り建てたのが重要文化財である南円堂。西国三十三所の九番札所に配されるがゆえか参詣人は絶えず、堂前にはおおよそ人の流れが散見されます。堂内には本尊不空羂索観音坐像(ふくうけんさくかんのんざそう)や四天王立像などが安置されていますが堂の扉は常に閉じ、特別に開扉されるのは毎年10月17日の大般若経転読会(だいはんにゃきょうてんどくえ)のみとなっています。なお火災による被災再建を繰り返し、現在の建物は寛政元年(1789年)に再建されたもの。

 

南円藤。堂の前に咲かせる「南円堂藤」は南都八景の一つに数えられています

 

五重塔。内部には薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されています

 

釈迦の遺骨をおさめる国宝五重塔は天平2年(730年)に不比等の娘である光明皇后の発願で創建されました。高さは50.1メートルにも及び、木造の塔としては東寺の五重塔に次いで日本で2番目の高さを誇ります。初層の東には薬師浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に弥勒浄土変、南に釈迦浄土変が安置されていたと伝えられています。過去5度の被災・再建を繰り返し、現在のものは応永33年(1426年)に再建されたもの。

 

上記のとおり、興福寺は創建以来、とにかく火災に見舞われる頻度の多かった寺院で、歴史を通じ幾度も被災・再建を繰り返してきました。中でも治承4年(1180年)に起こった治承・寿永の乱(源平合戦)の最中の平重衡による南都焼討の被害は甚大で、堂内に安置していた仏像や宝物、そしてまた興福寺の伽藍の大半はこの焼討によって完全に焼失してしまいました。現・興福寺に並ぶ建物ほとんど全ては南都焼討以後の鎌倉復興期に建てられたものだと言われています。

 

西金堂跡

 

中金堂は歴史を通じ7度もの焼失・再建を繰り返したとされています

 

時代を経て江戸時代の享保2年(1717年)にも、講堂の出火がまたたく間に他の伽藍に燃え移り大きな被害が出ました。講堂は言うに及ばず南大門、さらに光明皇后が母である橘三千代の冥福を祈願し建てた西金堂までも完全に焼失してしまいました。西金堂は歴史的には非常に価値の高いお堂でしたが、運悪く当時の幕府の財政逼迫から寺院復興へ向けた動きが弱まり、これらは再建叶わず、今は焼け跡、基壇(きだん)の上に礎石がひっそり据えられるだけとなっています。

 

一方、同じく享保2年の大火災に見舞われ焼失した不比等創建の中金堂は当初でこそ幕府からの支援はなく、復興への険しい道のりに喘いでいたものの、清水寺や京都御所、大阪牛玉社や時に江戸にまで資金調達に走り回り、粘って幕府からも何とか3000両の寄付金を引き出したことで、ようやく文政2年(1819年)に規模を一回り縮小された仮の金堂を建てるに至りました。しかし元より長期の使用に耐えうる設計ではなかったため、やがて老朽化、雨漏りもひどくなり一部再利用できる木材を残して2000年に解体。現在のものは1974年に講堂跡地に建てた仮金堂で、そこへ本尊を移し利用していますが、こちらも現在進行中の新たな中金堂の復元を待ってその役目を終えます。

 

仮金堂

 

国宝館。堂内有料、多種の仏像や寺宝を収蔵しています

 

創建当初の壮麗な天平様式を再現するべく、現在2018年落慶に向けて着々とその中金堂の建設が進んでいます。残念ながら現場は素屋根で完全に覆われ、復元中途の片鱗すら垣間見ることは出来ませんが、それだけに想像が刺激され、スケールアップした中金堂を見る日がとても待ち遠しく感じられるものです。

 

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