日本の始まり。建国の聖地、橿原へいざ! 「橿原神宮」

橿原神宮は記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮があったとされるこの地に、明治23年(1890年)に明治天皇の手により創建された神社。
非常に格式の高い社であり、近代の創建ではあるものの、県内にあっては春日大社に並ぶ参拝客を集めることでも有名です。

記録によれば昭和15年に執り行われた紀元2600年奉祝式典にはおよそ1000万人も達する参拝客を集めたのだそう。また現在にあっても、紀元祭や神武天皇祭あるいは社の奉祝行事である「春の神武祭」にも多くの参拝者が橿原神宮を訪れます。建国の聖地・日本の始まりであるとの誉は伊達ではありませんね。
表参道。参道の両側には橿の並木が続き、進むこと100mで神橋広場に到着します

南神門。造りは素木建の八脚門、屋根は切妻造の銅板葺です

さて、参拝客が深く首を垂れる本殿に祀られた神武天皇とはいかなる存在なのでしょうか。 神武天皇との呼び名は奈良時代の文人・淡海三船(おうみのみふね)が付したもので呼び名は様々あるようですね。生まれながらにして頭脳明晰、意気軒昂、若干15歳にして皇太子となった後は、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、程なく息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得ました。
外拝殿。昭和14年に完成。造りは建物両脇に長い廻廊を連ねた壮大な入母屋造りとなっています

内拝殿・回廊


そして神武天皇45歳の折には、今でも語り継がれるかの神武東征が遂行されます。神武東征とは生まれ育った日向の地では天下を治めるのには不向きなため、統治するのにふさわしい土地を探して神武天皇が東方へ遠征したことを指す言葉。瀬戸内海から吉備国を経て、河内へ至るまでにおよそ15年の歳月を要したとされています。

また目的である奈良盆地を前に、長髄彦(ながすねひこ)と激しい争いが繰り広げられた点もぜひおさえておきましょう。長髄彦との戦によってスムーズな東征を行えなくなった神武天皇を案じて、天照大御神が霊剣「布都御魂(ふつのみたま)」を天皇に授けました。これに勢いをつけた神武天皇は長髄彦との決戦に勝利。その後、八咫烏に導かれながら険しい山々を越えた末、現在境内の鎮座するこの橿原の地を都と定めたのでした。

背後に畝傍山を控えた本殿には祭神として神武天皇のほか、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)皇后が祀られています。安政2年(1855年)に建立された京都御所賢所を神宮創建に際して移建した造りが現在に至っているようです。
本殿は内拝殿、外拝殿で囲われていることから、比較的遠目からの参拝となりますが、その 容易には近づけそうにない神々しさは京の泉桶寺は月輪陵と似た独特な気配が辺りに漂っているようでした。少なくとも南神門あるいは北神門を抜けた先の神域からは、襟を正して外拝殿へ向かう必要があるでしょうか。

祭神を参拝した後は、橿原神宮鎮座以前よりこの地に祀られている末社・長山稲荷神社へと参ってみてください。緩やかな傾斜に、幾重にも連なる赤い鳥居が目印。その先には宇迦能御魂神(うかのみたまのかみ)・豊受気神(とようけのかみ)・大宮能売神(おおみやのめのかみ)の3柱を祀った小ぶりな殿が鎮座しています。手を合わせることで開運厄除・五穀豊穣・商売繁盛などのご利益があるようなので、本殿ともにこちらの稲荷の社でもパワーをいただきましょう。

長山稲荷社

長山稲荷神社の目の前には面積がおよそ4万9500㎡にも及ぶ広大な深田池が広がっています。奈良時代に造成された池のようで、時節にはその岸に色取り取りの花が咲き誇ります。 十二分にパワーを頂いたあとだと、尚の事、眺める美観にも常とは異なる感動が得られるかもしれませんね。

深田池。対岸まで遊歩道が設置されています

文華殿。昭和42年に、織田家旧柳本藩邸の表向御殿を移築、復元したもの

橿原神宮会館。内部はおよそ500人が収容できる大広間と貴賓室・和室からなり、研修や講演会などに利用されています

北神門。神域への入り口は南神門とこの北神門。唐破風造の平唐門で、もとは正門として大正4年に建造されました。後に紀元2600年事業で北神門として移築

 

アクセス

奈良県橿原市久米町934 TEL 0744-22-3271 近鉄南大阪線橿原神宮前駅下車 徒歩10分 詳しくは、下記オフィシャルサイトをご覧ください。

http://www.kashiharajingu.or.jp/