鑑真の涙 芭蕉の想い「唐招提寺」

0

唐招提寺は天平宝字3年(759年)に、新田部親王(にたべしんのう)の旧宅跡を朝廷から下賜された鑑真がこの地に精舎を建立したことをその創始としています。特色としては他の寺院のように朝廷や氏族の力を背景に建てられた寺院ではなかったという点。つまり鑑真個人の目的、言わば「戒律の研修を施す寺」を完成させるべく幾多の伽藍を境内に整備していったのでした。実際寺号の「招提」とは私寺を指す名として使用され、晩年には、鑑真は多くに受戒を施しながらこの寺で穏やかに余生を過ごしたと伝えられています。

 

南大門。五間の中央に三扉とした、切妻造りの建物。現在のものは昭和35年に天平様式で再建されたものです

 

金堂。創建時の姿を残すお堂、その本尊は盧舎那仏坐像で、右に薬師如来立像、左に千手観音立像が並びます

 

とはいえ、唐招提寺建立に至る鑑真の艱難辛苦は並大抵のものではなかったようです。
天平年間、寺院の増加とともに仏教への信仰は一層社会に浸透していました。ところが僧侶になるための正式な儀式などは整っておらず、これに危惧を抱いた聖武天皇は唐の受戒制度を参考にするべく、天平5年(733年)に栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の2僧を唐へ遣わしました。およそ十年の月日を費やしようやく出会った鑑真を伝戒師として適任と定め、共に日本へ渡海の運びとなるも、当時の航海は極めて難しく、5度の失敗を重ねたのち、6度目の渡海でようやく薩摩の地へたどりつきました(753年)。しかし旅の苦役が祟り、その頃にはすでに鑑真の目は全く見えなくなっていたそうです。

 

盲目の身となった鑑真ですが、期待されていた受戒に翌年には早速取り掛かります。東大寺大仏殿前に築いた戒壇にて日本初となる正式授戒を聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇らおよそ400名を前に施しました。そしてそのまま東大寺で5年を過ごした鑑真は大和上の称号を賜り、あわせて授かった新田部親王の旧宅跡へ東大寺に築いた戒壇を移したのです。それは今でも唐招提寺境内西のはずれに木々の緑に溶け込むようひっそりと鎮座しています。

 

講堂。外観は平屋の入母屋造で、内部に本尊弥勒如来坐像や持国天、増長天立像など多くの仏像が安置されています

 

戒壇

 

戒壇とは前述したよう僧侶になるための受戒が行われる場所のこと。唐招提寺の中でもとりわけ古く、その発祥を伺える重要な施設となりますが、嘉永元年(1848年)の火災によりその覆堂は完全に焼失しており、復興されないまま、今は3段の石壇のみが残るのみ。その最上壇にはインド・サンチーの古塔を模した宝塔が据えられています。

 

境内北東のはずれには鑑真の墓所である開山御廟が建っています。鬱蒼と茂った木々に覆われ、池を渡す橋を抜けた先のお墓はやや小高い丘の頂部に据えられています。
やや下から見上げる格好となる分、木漏れ日を浴びるお墓は青空を背景に白く光り周囲の静けさも重なって実に神々しく、また中国は揚州から贈られた瓊花(けいか)が脇を彩り、美しさを一層引き立たせています。事実この神秘的な空間に誘われるのか、同時期の高僧の中では唯一、1250年の永きに亘って参拝者が後を絶たないそうです。

 

開山御廟。瓊花は初夏に花を咲かせるのだそうです

 

開山堂

 

開山御廟の門を出て少し西へ向かうと御影堂が見えてきます。土塀に囲まれた瀟洒な建物は興福寺の有力な別当坊だった一乗院宸殿の遺構、明治に入って県庁や裁判所の庁舎として使用していたのを昭和38年(1964年)移築復元しました。中には国宝の鑑真和上坐像が安置されています。日本の肖像彫刻最古の作品と言われ、鑑真の不屈の闘志を感じさせてくれる彫像です。さらに他にも東山魁夷(ひがしやまかいい)の描いた鑑真和上坐像厨子扉絵やふすま絵が収められ、わけても障壁画は長大な製作期間を費やし、鑑真に故郷中国と日本の景観を奉納、御霊を慰める意で描かれたとても貴重な壁画です。但しこれらは常時公開されているわけではなく毎年6月6日に催される開山忌舎利会(かいざんきしゃりえ)の前後3日間のみの開扉ですので注意してください。

 

なお年間数日のみしか拝むことの出来ないこの鑑真和上坐像に代わって、その姿を模した「御身代わり像」が平成25年より開山堂に祀られ、毎日拝観可能となっています。
摸像と聞けば何か分の悪さがイメージされそうなものですが、しかし現物を見たらばそこに施された技に確かな知見と経験が込められ、決して安易な気持ちで御前に立てるような像ではないことに気付かされます。御影堂の鑑真和上坐像に参るのと同様の心持ちで御身代わり像へと参ると良いでしょう。

 

芭蕉翁句碑

 

北原白秋句碑。開山堂の横に据えられています

 

「若葉して 御(おん)めの雫 ぬぐはばや」 松尾芭蕉

 

上記は貞享5年(1688年)の若葉の頃、唐招提寺を訪れ鑑真和上坐像を拝した芭蕉が思わず心打たれ詠んだ歌。その意を芭蕉は、種々の苦難を乗り越え日本に授戒の習慣を根付かせた鑑真の、今うっすら目元に浮かべる雫を色づく若葉で拭ってあげたい、としています。
その句碑は開山堂へ通じる石段の脇に据えられていますが、鑑真の人生に思いを馳せ、芭蕉のような感受性を携えていれば私たちにも像の造りの白眉にハッと胸が揺さぶられる瞬間を感じることが出来るかもしれませんね。

 

[su_note note_color=”#f6f6f6″]
アクセス

奈良県奈良市五条町13−46
TEL 0742-33-7900
近鉄西ノ京駅 徒歩5分
http://www.toshodaiji.jp/
[/su_note]