本尊を守護する12の神将「新薬師寺」

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新薬師寺は天平19年(747年)3月、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建立したことをその創始としています。新薬師寺と聞けば、即座に西ノ京にある薬師寺との類似について思いが向かうかもしれませんが本尊の薬師如来を祀る以外に、特に関連はありません。
そもそも薬師寺が法相宗なのに対し新薬師寺は華厳宗と宗派が全く異なります。つまり接頭の「新」とは「霊験あらたか(新)な薬師寺(薬師如来像を祀る)」との意味であり決して「あたらしい薬師寺」という意味でないことをまずはおさえておきましょう。

 

とはいえ、似た名のお寺が近くにあるとついついあらゆる面で比較してしまうもの。
実際歴史を概観してみると薬師寺との類似が全くないわけではありません。

 

南門。本堂の正面に建つ切妻造の門

 

実忠和尚御歯搭。東大寺二月堂のお水取りを始めた実忠(じっちゅう)和尚の五層石塔。当初は十三層の石塔でした

 

奈良時代の新薬師寺も南都十大寺の一つとして薬師寺同様絶大な権勢を誇っていました。
間口九間(柱と柱の間が9つある)の大きな金堂やその左右に並ぶ東搭、西塔、さらに100人余りの僧侶が修行するための僧坊や壇院が整備されるなど、旧境内は現境内を東限とし、およそ440メートルにわたる壮大な七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったようです。

 

ところが創建まもない宝亀11年(780年)に早くも天災に見舞われます。西塔は落雷によって焼失、その延焼で金堂、講堂、三面僧坊もたちまちのうちに焼け崩れてしまいました。その後多くの助力もあって延暦12年(793年)には元の壮大な新薬師寺の姿に復興されますが、これも束の間応和2年(962年)の台風により金堂を含めた各諸堂が灰燼と化してしまいます。以後は復興を繰り返すも、とうとう歴史を通じ往事の規模に戻ることはありませんでした。ちなみに現在境内に立ち並ぶ東門、南門、地蔵堂、鐘楼は鎌倉時代、寺に住み込み再興に意を尽くした解脱上人(げだつしょうにん)、明恵上人(みょうえしょうにん)の手によるものである一方、寺の中心に位置する本堂は治承4年(1180年)の平重衡の兵火で焼け残った稀有な創建当初の建築物となっています。

 

石仏群。奈良時代頃の制作だとされています

 

地蔵堂。十一面観音立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像が安置されています

 

元々は金堂が寺院の中心でした。しかし応和2年の台風により金堂が倒れてしまったため、修法を行うためのお堂であった建物を本堂としたのです。外観は、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺きで、低く平らな構え。屋根の勾配も緩やかに傾斜し、総じて軽やかで落ち着いた天平年間の建築が見て取れます。中に入ればひっそりと静かな空間に、高さおよそ90センチ、直径およそ9メートルの円形の土壇が築かれ、その上に本尊である薬師如来が堂々たる姿で鎮座していました。病気を癒し災難を取り除く薬師如来像をよく見ると、その目は丸く大きく見開かれ、聞けば聖武天皇が眼の病気を患った際、このような特徴で仏師に造らせたのだと言われています。

 

本堂

 

香薬師堂

 

さらに土壇の本尊を囲うように外向きに立っている12体の立像があります。これは十二神将立像と呼ばれ、薬師如来の世界を守護する役割を担っていますが、新薬師寺の十二神将は数あるお寺の中でも最古で最大のものと称されています。
実際、鎧や兜で身をつつみ槍や剣を手にしたまさに完全武装とも言えるその御姿は鋭い眼光も相まって痺れるほどの風格を備えるものでした。それもそのはず彼ら12人は戦の大将としておよそ8万4千もの眷属神(けんぞくしん)を率いて薬師如来の行を妨害する悪魔の軍と絶えず命をかけて戦ってきたのです。また守りを固めるべく、いつ襲ってくるかもしれない敵軍に対しては、薬師如来を中心に周囲に十二の陣地を敷いて常に巡回と警戒を怠らなかったと言われています。その際、大将それぞれの兜の上には十二支を象ったオブジェが据えられました。これは将兵である眷属神が自らの大将を見分けやすくするために備えたものだとされていますが、新薬師寺の十二神将には不思議とこのオブジェが見当たりません。いくつか説があるようですが本像の材質の問題が一つと、あるいは命をかけて戦う戦場にそのような目印などは不要であるとの仏師の想いがあったからだとも言い伝えられています。

 

鐘楼。鐘楼の梵鐘は、「日本霊異記」にある「道場法師の鬼退治」に登場する鐘として有名

 

竜王社

 

さて、本堂で薬師如来坐像を見た後は境内外れにある香薬師堂の香薬師如来立像にも足を向けてみましょう。像高73センチ程度のとても小さい子どもの姿をした薬師如来像ですが、深大寺の釈迦如来、法隆寺の橘夫人念持仏とともに白鳳の三大美作と称されています。不幸なことに明治時代の2度の盗難を経て、昭和18年(1943年)の3度目の盗難で現在は行方不明のままとなっています。よって今安置されているものは、写真や石膏型から作られた複製品。とはいえその少年のような微笑みを浮かべた表情はとても愛らしく思わず頬が緩んでしまうような顔立ちをしているので、新薬師寺にお立ち寄りの際は是非ご覧になってみてくださいね。

 

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アクセス

奈良県奈良市高畑町1352
TEL 0742-22-3736
市内循環バス 新薬師寺道口(磁石町)下車 山手へ徒歩10分
http://www.k5.dion.ne.jp/~shinyaku/
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