茶の湯の香る「大徳寺」

0

大徳寺の創建は正和4年(1315)、師より印可を得たのち、京都は東山で修業を続けていた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が同郷の赤松円心の帰依を受けて柴野の地に小庵を建てたことに端をもちます。

 

当初は規模の小さな庵だけでしたが、正中2年(1325)に花園上皇から深い帰依を受けると、寺の伽藍は徐々に整いはじめ、後醍醐天皇の保護を得た頃には綸旨で京都五山の上位格へとのぼりつめました。

 

その後、足利一門に軽んじられ(後醍醐天皇との関係性から)、五山の列から外される憂き目にあいはしましたが、当時既に世俗化していた五山十刹に留まる必要なしと自ずから機構の外へと離脱し、程なく座禅修行に専心する独自の道を歩むようになりました。

 

やがて時代を経て勃発した応仁の乱で伽藍はひどい損壊を負い、江戸時代では幕府による統制で寺はひどい圧迫を受けました。しかしその時々に応じて輩出された文化人や大名などの深い帰依もあって、復興、再建、持ち直し、今でも20を超える塔頭や三門、仏殿、法堂の一直線に聳える大パノラマなどを備えた大徳寺は京都有数の禅宗寺院として、そしてまた同時に臨済宗大徳寺派大本山のお寺として、日本のみならず世界中から熱い視線を集めています。

 

京都のお寺ではその代表的な機能を評して別称がよくあてがわれています。「妙心寺の算盤面」に「建仁寺の学問面」、そして東福寺では目もくらむような伽藍群が「東福寺の伽藍面」という別称を定着させました。では大徳寺はどのような別称が付されているのでしょうか。

 

茶を飲む習慣は平安時代に遣唐使によってもたらされたもので、それは元々貴族の間で薬を飲む感覚で広がりを見せていました。それが鎌倉時代になって、栄西の伝えた禅宗の広がりとともに精神修養的な意味あいで一般にも飲茶習慣が普及、室町時代では飲んだ茶の銘柄を当てる闘茶の博打が民衆の間で流行の兆しを見せました。

 

参道

 

この動きを受けて村田珠光は茶会の席での博打を非難し、元来、茶とは洗練された精神的な交流であるとする侘び茶の精神を説きました。大徳寺と茶の湯の関係はこの村田珠光が大徳寺の住職一休宗純の元へと参禅したことに始まり、侘び茶がやがて、堺の町衆であった武野紹鴎やその弟子である千利休に引き継がれたことから、大徳寺と茶の湯と堺の間には緊密な関係ができあがり、その後も寺からは著名な茶人が輩出されたといいます。大徳寺が「大徳寺の茶面」と言われる所以はそんなところにあるのかもしれません。

 

「禅僧でありながらしきりに茶の話をする」
                 司馬遼太郎 街道を行く

 

大徳寺には様々な因縁より歴史に名を馳せた人物が大勢集まったことでも知られており、例えば千利休に関連した三門のエピソードは実に興味深いお話になっています。

 

大徳寺の三門は朱塗りの入母屋造本瓦葺で両翼には山廊が付いています。
その一階の部分は大永6年(1526)、一休宗純の参徒連歌師であった宗長の寄進により完成し、未完のままであった二階部分も天正17年(1589)に千利休が完成させて、後に「金毛閣」と名付けました。その後利休の助力に感謝した寺は門の上層に雪見に訪れた利休の木象を安置しましたが、これにより門を抜けるものは須らく利休の足下を進むことになり、これが秀吉の怒りをかって、後の利休切腹につながったという説があるようです。

 

三門

 

仏殿。応仁の乱で焼失後、一休宗純によって再建されました

 

法堂。一休宗純の手により再建、内部の天井に描かれた龍は、狩野探幽の筆によるもの

 

広大な境内に建ち並ぶ塔頭のうち、実際中に入って拝観できるものは大仙院、瑞峯院(ずいほういん)、高桐院(こうとういん)、龍源院の4つとなっていますが、ここでは寺の中でも最も古い歴史を持つ龍源院についてみていきましょう。

 

龍源院は文亀2年(1502)に宗峰妙超から数えて第8代の法孫である東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開祖とする塔頭寺院で、その名の由来は寺の山号である龍宝山(りゅうほうざん)の「龍」と臨済宗松源派の禅を正しく継承する松源一脈の「源」の2文字を採ったもの。内部には建築史上最も重要とされる方丈や開祖堂、また方丈を取り巻くように4つの庭が配置されています。

 

滹沱底(こだてい)は中国の鎮州城の南を流れる 滹沱河から名をとった白砂の庭で、両端に据えられた2つの石(阿吽の石)は元々聚楽第のものであったと伝えられています。

 

滹沱底(こだてい)

 

東滴壺(とうてきこ)は白砂の上に5つの石を3対2の石組みに分けて造られており、我が国では最も小さい庭であるとされています。

 

東滴壺(とうてきこ)

 

龍吟庭(りょうぎんてい)は相阿弥による作庭で、中央の一際大きな岩が須弥山で、真実の自己本来の姿、悟りに至った姿を現しています。その須弥山の前にある円い石は遥拝石で、目的に向かって近づこうとする信心を表現しています。

 

龍吟庭。周囲の杉苔は果てしない大海原を、石組みが陸地を現しています

 

最後の他に類を見ない庭として名高い一枝坦(いっしだん)も含めどの庭も趣の異なった様相をしていますので、陽が傾くまで龍源院の庭を堪能してみるのも悪くないかもしれません。

 

一枝坦。庭の中央やや右よりにある石組が蓬莱山(仙人の棲む不老長寿の島)を、白い砂が大海原を現しています

 

[su_note note_color=”#f6f6f6″]
アクセス

京都市北区紫野大徳寺町53
TEL 075-491-0019
JR京都駅より市営バス 「大徳寺前」下車すぐ
詳しくは、下記オフィシャルサイトをご覧ください。
http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/
[/su_note]