大将軍社が放つ不思議な光「大阪天満宮」

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菅原道真は幼少の頃から類まれな才能を持ち合わせ、わずか5歳で和歌を詠むなど周囲からは神童として仰がれていました。その才覚は成長するほどに開花してゆき、貞観4年(862)には文章生に、そして貞観16年(874)には若年でありながら兵部少輔(ひょうぶしょうゆ)と民部少輔(みんぶしょうゆ)の役職に任ぜられました。程なく当時学者の最高位であった文章博士となれたのも、その才能と経験が多くの貴族に認められたからに他なりません。

 

表門。天井には東西南北と十二支の名の記載された方角盤が飾られています

 

表門の方角盤

 

実際、宇多天皇からは厚い信任を受け、続く醍醐天皇の治世でも「変わらず道真を重用するように」との命が降りるなど、根本的なところで道真は皇族筋からとても可愛がられていたようですね。風向きが変わりはじめたのは藤原時平が左大臣に就いてからのこと。出世街道をひた走る道真に、並みならぬ嫉妬心を燃え上がらせていた時平はある日に道真に対して根も葉もない濡れ衣をきせます。当然道真からすれば全く身に覚えのない罪です。必至になってその噂を打ち消しにかかりますが、一度付着した汚名を挽回することは難しく、不幸にも九州の大宰府へと左遷される憂き目にあってしまいました。

 

○東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな

 

上記の歌はいよいよ左遷の日が近づきつつある中、京の屋敷に植えた梅の木に向かって道真が語りかけるように詠った和歌。通称「飛梅伝説」の端緒ともなったとても有名な一節ですが、それによると、主人がこの屋敷から去っていくことに一抹の寂しさを感じた梅が道真の後を追うようにして空を飛び、京から遠く離れた大宰府の地へ降り立ったという話。現在、道真といえば梅が連想されるのもそうした伝説が脈々と我々の胸の内に息づいているからなのでしょう。

 

。それからおよそ50年後のとある夜のこと。大将軍社と呼ばれる社の前で、突然七本の松が生えて、夜毎にその梢から金色の霊光が放たれるという奇怪な現象が起こります。その現象を多くの者が目撃したこともあってか、噂はやがて大きなうねりとなって、貴族や皇族、果ては村上天皇の耳にも届きました。その謎の光に感得した村上天皇は程なく勅命にて道真公を祀った天満宮を創立したのでした。

 

本社。拝殿、幣殿、本殿からなる権現造。菅原道真を祀っています

 

境内には今でも謎の光の発信源ともいえる大将軍社が据えられています。その創建は大阪天満宮の鎮座よりも250年以上も前とされ、境内各社の中では最も古い社。参ることで平安の頃と同じ強烈な光があなたを包んでくれることでしょう。参拝に参られた折にはぜひ大将軍社へお立ち寄りになってくださいね。

 

大将軍社。八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、久那斗神(くなどのかみ)を祀っています

 

裏拝殿。京都の北野天満宮と同じように大阪天満宮にも裏拝殿が存在しています

 

さて、最後に天神祭について簡単に記しておきましょうか。
毎年7月24日と25日(道真の命日)に催される天神祭りは京都の祇園祭、東京の神田祭に並ぶ日本三大祭りの一つ。当日には全国からおよそ100万人以上の見物客が盛大に打ち上がる花火をその目に焼き付けるべくこの地を訪れます。その創始はおよそ千年以上前とされ、近世においては浪速の繁栄のシンボルとして隆盛を極めました。政変や大戦で一頃中断する憂き目にあいはしたものの、そのたびごとにバージョンアップして復活、昭和28年になってようやく今の形に落ち着いたとされています。大将軍社を参拝したあとであれば、あるいは真夏の夜空を装飾する5000発の花火が、さながらあの金色の霊光にも似た不思議な輝きに感じられるかもしれませんね。

 

白米社。京都の伏見稲荷大社の奥院とされています

 

霊符社。 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祀っています

 

蛭児遷殿。蛭子大神を祀っています

 

牛の彫像。天満宮ではお馴染みですね

 

梅の木

 

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アクセス

大阪府大阪市北区天神橋2丁目1番8号
TEL 06-6353-0025
地下鉄谷町線・堺筋線「南森町駅」下車徒歩5分
JR東西線「大阪天満宮駅」下車徒歩5分
詳しくは、下記オフィシャルサイトをご覧ください。
http://www.tenjinsan.com/index.html
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